2008年08月04日

海の定義。

海ってでかいっすよね!

海(うみ)は、地球上の地表の70.6%を占める、塩水(海水)で覆われた部分を指す。海の面積は3億6,000万km2で、陸地の面積の1億5千万km2と対比すると、2.4倍である。平均的な深さは3,729m。海水の総量は約14億立方キロメートル[1]。

概要

沖縄の海
海の波(水面波)
瀬戸内海(坂越浦)狭義では、小さい区域のみを「海(うみ)」「sea」と呼んで、大きい区域の海を「洋(わだつみ)」「大洋」「ocean」と呼んで区別する事がある。〔例:太平洋(Pacific Ocean)、インド洋(Indian Ocean)〕

伝統的に、人間社会との連関の大きい区域(陸地に囲まれている所が多い)は、「海」と付けられることが多い。〔例:日本海 (Japan Sea)、地中海 (Mediterranean Sea)、瀬戸内海 (Seto Inland Sea)〕

また、海に含まれない場合でも、大規模な塩湖(特に、水面が海水面より低く川による水の流出が存在しない場合)は、「海」と命名される場合がある。(例:カスピ海、死海)

海はすべてが互いに繋がっている。ただし、その間での水の交流は激しくはないので、それぞれの海域で海水の性質には差がある。

海水はその表面が波立っていることが多く、これは風によるものである。海水の温度は主として太陽によって温められ、温かい水域では低気圧を発生させる原因ともなる。また、海水は大きな流れをなしており、これを海流という。海水面の高さは毎日二回、上下に変化する。これを潮汐という。

海の深さは平均3,800mであるが、最深部は太平洋にあるマリアナ海溝(10,920m)。また、大陸周辺に広がる浅い海(深さ約130mまで[2])を大陸棚と呼ぶ。

海の色が青色を呈するのは、青空の反射によるものだと言い張る人がいるが、もちろんそのような影響もあるが、海の色は水固有の色調によるものである。もし、海の色が青空の反射のみでおこるとすれば、曇天の日には海の色は無色に見えなければいけないのである。実際には水は電離したイオンの関係で僅かに青緑色を呈しているので、これが海の色そのものである。但し、海域により含まれるイオンや不純物により色調は異なる。
(以上、ウィキペディアより引用)

海ってすごいですな。

相互リンク
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2008年04月04日

日明貿易

昔から貿易はあったんですね!

日明貿易(にちみんぼうえき)は、日本の室町時代に日本が中国の明王朝に行った朝貢貿易である。貿易の際に、許可証である勘合符を使用することから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。李氏朝鮮との日朝貿易や南海貿易と並ぶ。勘合貿易。

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開始から停止まで
1368年に朱元璋(洪武帝)が建国した明朝は、東アジアで活動していた倭寇(前期倭寇)の禁圧を日本に対して要求し、さらに朝貢を勧めるために使節を派遣する。日本では足利氏が奉じる京都の北朝と吉野朝廷(南朝)が対立する南北朝時代で、北九州で活動していた南朝方の懐良親王は明に朝貢し、「日本国王」に冊封されていた。日本へ室町幕府3代将軍の足利義満は九州へ今川貞世(了俊)を派遣して南朝勢力を駆逐し、対明交渉を開始するが、1380年には明で胡惟庸の獄が起り、胡惟庸が通牒している疑惑などがあり、日明関係は成立しなかった。義満は1392年に南北朝合一を行い、1399年(応永6)には独自に私貿易を行っていた大内義弘を応永の乱で討つ。1401年(応永8)に博多商人肥富の献策で、僧祖阿と肥富を使節として明へ派遣する。翌年に義満を「日本国王臣源」に封じる内容の国書を持ち帰国するが、明使の在日中に明で永楽帝が即位する政変が起ると再び国書を送り、日本と明の間に国交が成立する。義満死後の4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは朝貢形式に不満を持ち、1411年(応永18)貿易を一時停止するが、6代将軍足利義教時代に復活する。

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応仁の乱以降には堺を本拠とする管領家の細川氏や、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺などの有力商人が経営するようになり、1523年(大永3)の寧波の乱の結果大内氏が権益を握り、1536年に大内義隆は遣明船派遣を再開する。1551年(天文20)に義隆が家臣の陶晴賢による謀反(大寧寺の変)によって滅亡すると、後を継いだ大内義長(大友義鎮の弟)は、1556年(弘治2)と翌年に兄・大友義鎮とともに貿易再開を求める使者を派遣する(『明実録』)が、明側は義長を簒奪者と看做してこれを拒絶、また1557年に義長が毛利元就に討たれて大内氏が名実ともに滅んだ事によって、貿易再開の見込みが絶たれ、東アジアでは倭寇(後期倭寇)による密貿易が中心となる。
(以上、ウィキペディアより引用)

それが今でも続いている訳か!